HPFhito81・立ちながらデスクワークをするムラタオフィス社長村田利文氏

北海道新聞(2014・7・2)に「札幌ビズカフェ15年目の挑戦-先駆者たちのその後」の記事が掲載されていて、ビズカフェ(BizCafe)初代代表の村田利文氏の顔写真も載っている。早速パノラマ写真取材を申し込む。3代目ビズカフェのオフィスと村田氏の「ムラタオフィス」のある都心部の「日の出ビル」の9階のコワーキングスペース「ドリノキ」を訪ねる。
 出迎えてくれた村田氏は立ったままで、オフィスには椅子が無い。村田氏は立ったままパソコンを操作している。自宅でも立ったまま仕事をするらしい。これは最初見るとかなり驚く。どうして立ったまま仕事をするか聞いてみる。店の売り場やその他作業場では立ち仕事は普通に行われていて、デスクワークは必ずしも座ってする必要はない。座って眠くなるより立って仕事をする方が、能率が向上する。最初は疲れるけれど、馴れれば身体にも良い。言われてみるとそんな気もする。しかし、真似する気にはならない。
 札幌ビズカフェは村田氏らが中心になって1999年に札幌北口のプレハブの建物内に開設された。ビズカフェの精神は「New business from new style」で、この言葉を筆字で書いた看板が掲げられていた。この看板は現在も引き継がれていて、ドリノキの別の場所に置かれてあった看板を運んでもらい、村田氏と一緒にパノラマ写真撮影である。
 ビズカフェは設立当時全国的に知られる存在となり、2001年には平成13年度の情報化促進貢献企業・団体として経済産業大臣表彰を受賞している。2代目ビズカフェは伊藤組110年記念ビルにオフィスが移り、3代目が現在の場所に移っている。
 村田氏は1956年江別市の酪農家に生まれている。札幌南校から北大に進学し、学部は電子工学科に移行している。学部と修士課程でマイクロコンピュータと出合い、同学年の3名と一緒に修士課程の時ベンチャー企業「ビー・ユー・ジー」を興している。この会社は札幌の情報産業勃興期の成功譚として語られた。
 その後ビー・ユー・ジーを離れ、VoIP技術の開発を手掛け1997年「ソフトフロント」を設立している。この会社はナスダック・ジャパン(現ジャスダック)に上場した。村田氏は同社の社長、会長を勤め、現在は最高技術顧問となっている。2009年に「ムラタオフィス」を設立してプロジェクト・マネジメントやコンサルタント業を行っている。札幌のIT企業数社の社外取締役も兼務している。
 仕事以外の趣味を聞いてみると、意外にも彫刻である。安田侃氏の彫刻講座に参加したのがきっかけで、石彫を手掛けている。石彫は時間がかかるので、最近はワイヤーアートにも手を伸ばしている、とのことである。作品展でもやらないのかと聞いてみると、まだそこまでする自信はないとのことである。
 村田氏は本を集めることも好きなようで、自宅を新築した時書庫を造った。現在、この書庫は5千冊の本で埋まっているとのことである。そろそろいっぱいになるのではないかと聞いてみると、1万冊の蔵書にも耐えられるとのことで、蔵書の点から言えば人生折り返し点に居ることになる。(2014・7・4)



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HPFhito80・銀行員から転職し仕事に恵まれた北海道公営企業管理者伊藤邦宏氏

 旧北海道拓殖銀行(拓銀)が主催し、1986年に結成された「米国先端産業集積地域調査団」に筆者はコーディネータという役回りで参加したことがある。団長は拓銀副頭取加藤忠義氏(故人)、企画・立案は団員の拓銀常務石黒直文氏で、事務員として拓銀行員の伊藤邦宏氏が加わった。1986年には、新しい情報産業団地札幌テクノパークの中核施設となるサッポロエレクトロニクスセンターが同団地内に竣工している。当時拓銀は今後発展が期待されるIT産業に関わる地元企業を育成する目的のため、30名からなる同調査団でアメリカ各地で視察旅行を行った。
 札幌におけるIT企業は、黎明期からいくつもの成功譚が語られて成長していった。しかし、1997年バブル崩壊で拓銀が破綻する。同行の行員の多くは、拓銀の営業権を引き継いだ北洋銀行に移ることになった。その他の同行転職者のため、北海道も行員の受け皿として社会人枠を増やして道職員として採用した。ただし、原則40歳以下の採用で、採用年の1998年当時44歳であった伊藤氏の採用は稀なケースであった。
 伊藤氏は道に採用された後、課長登用試験に合格、IT産業推進、食と観光産業振興、企業誘致と、その時々の道の産業政策の要となるところで仕事をして、2013年には道の特別職の北海道公営企業管理者になっている。転職後仕事に恵まれたといえる。2013年「北海道功労賞」を受賞した筆者の祝賀会で、伊藤氏に挨拶をしていただいた。
 伊藤氏は1953年の札幌生まれで、札幌西高から京大に進学している。同大法学部卒業後拓銀に入行している。どうして拓銀を選んだかを聞いてみると、戻りたかった札幌に軸足を置いて、東京や海外での仕事ができる職場としての拓銀に期待したためとの答えである。願い通りニューヨークや東京での勤務が続き、東京では大蔵省を相手にしたモフタン(MOF坦)を勤め、企画・調査がメインの仕事であった。その行員生活は前述の拓銀破綻で終わりを告げた。
 伊藤氏に趣味の事なども聞いてみる。山登りだそうで、今でも暇を見つけて登っている。登山するようになったのは、運動部所属の息子と藻岩山に登った時に体力の無さに気づいたのがきっかけとのことである。道内の山はテントや自動車で寝泊まりしながらかなりの座数を登っている。登山することで森林とか地質等にも興味の対象は広がった。
 アメリカ旅行で伊藤氏と初めてご縁が出来てからもう30年近くになろうとしている。札幌における情報産業の企業と人も随分変わってしまった。これからも変わっていくだろうと思いながら、最後に伊藤氏の執務室でパノラマ写真撮影を行い、取材を終えた。(2014・7・3)


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HPFhito79・仕事・スポーツ・合唱と充実した生活を送る遠藤興産社長遠藤隆三氏

ススキノの中心南6条西5丁目に塀を巡らせた大邸宅がある。門には「愚象庵」の表札が掛かっている。その家の現当主が遠藤興産社長の遠藤隆三氏である。同社の初代は隆三氏の父の象三氏で、名前の「象」を採って表札にしたそうだが、意味や謂れはよくわからないと隆三氏の言である。親子の名前に「三」がついているけれど、遠藤家の命名の流儀らしく、隆三氏は長男である。
この屋敷は外側から内の様子がわからないので、通りすがり人は色々推測するようである。以前、道新文化センターの都市秘境巡り講座で、参加者と共に屋敷の内を見学させてもらったことがある。1919(大正8)年に完成したと伝えられている家屋は、北海道の住宅には見られない造りがあり、見学者には都市の中の秘境として記憶に残ったはずである。
この「愚象庵」内で隆三氏のパノラマ写真を撮り、インタビューをする。隆三氏は1976年にこの家で生まれている。北海学園大学法学部に進み、卒業後不動産の仲介業の三井リハウスに4年間勤め、遠藤興産に入社する。遠藤家は木材、ゴムなどを扱う仕事から象三氏の時に不動産業の現会社を興している。隆三氏が同社の社長に就任したのは、東日本大震災の起こった2011年で、当時35歳の若さであった。
遠藤興産の本社は道銀ビルの9Fにあり、隆三氏はこの自宅から毎日本社に通う。会社の方は社員が10名前後、パートも同数程度居る。若くて社長に就任して大変だろうと推測してみるけれど、本人の口から大変そうな話は出てこない。それよりも、このままの人口減少が続けば、不動産業を始め北海道の経済に与える未来が話題になる。しかし、深刻な未来をそれほど気にする様子でもなく、楽天的な性格のようでもある。
仕事以外に話題を向けると、趣味の範囲が広い。スポーツが好きなようで、大学時代はラクビーとスキーをやっていた。大学生以前には水泳、剣道を、社会人になってからはサーフィンやスノウボードをやっている。サーフィンは、夏は苫小牧の海岸、秋には留萌近辺の海に行くそうである。自宅庭にサーフィンのスーツが干してあり、頻繁に出かけている様子である。
全くの体育会系かと思っていると、オペラが好きで大学時代にはミュージカルにも出演しているというから、体育会系でも毛色が変わっている。現在は合唱団に加わっていて、札響の合唱団や男性合唱団「ススキーノ」のメンバーでもある。それにしても仕事と掛け持ちでこれだけのことをするのは若さのなせる業である。趣味に打ち込む経済人が多くなれば、札幌の経済や産業の厚みが増すと感じた。(2014・7・1)

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HPFhito78・ラーメン大好きの札幌丸井三越社長竹内徹氏

ホテルでのメンバー制の月一の朝食会で、新メンバーに加わった札幌今井三越社長の竹内徹氏が、伊勢丹新宿本店のメンズ館のリモデルに関わった経験談を話されたのを聞いたことがある。男性化粧品は従来女性化粧品売り場の隅にあったけれど、男性が女性に交じっては買い難くかろうと、男性用化粧品の売り場を別に設けたらこれがヒットした、などの話が頭に残っている。現場を観察していると、新しいことが見えてくるとのことである。
前記朝食会の別の日に竹内氏にパノラマ写真撮影とインタビューをお願いすると、朝食会後に札幌今井三越の社長室での撮影ということになる。ホテルから会社まで歩きながらのインタビューである。
竹内氏は1960(昭和35)年東京都の生まれである。氏の生年は安保闘争で全国が騒然としていた年である。早稲田大学商学部に進んで、大学時代にラクビーに打ち込んだ。大学卒業後も社会人リーグで活躍されたそうである。話で、ラクビー、柔道、レスリング等のスポーツをやった人の顔をみるとわかるそうで、耳が押しつぶされたように頭についているとのことである。確かに氏の顔を見るとそうなっている。これから初対面の人をみたら、耳の特徴を見てみようと思った。
大学を卒業して伊勢丹に入社する。1990年にはマレーシア・クアラルンプールに伊勢丹マレーシア店を立ち上げるために赴任している。4年間のマレーシア滞在後シンガポールの伊勢丹に3年間勤務して、帰国後前記のリモデル・プロジェクトに携わり、2013年札幌に社長として赴任している。
初めて入る札幌今井三越の社長室の廊下には、以前は今井家の歴代の当主の胸像があったそうで、今は今井家の発祥の地である新潟県三条市の方に送られて残っていない。会社の今井家の記憶は、新社名にかつてのライバルデパートの三越と連記されて残るぐらいである。
社長室の竹内氏が座っている机にはラーメンの丼ぶりが置かれている。本物ではなく作り物であるけれど、自称B級グルメの竹内氏はラーメン大好き人間である。1年前札幌に赴任してから、味の三平を皮切りにもう77軒は食べ歩きをしたそうである。道内も積極的に歩き回っていて、食べ物のおいしい北海道を満喫しているようである。
札幌赴任で目指すことは、JR札幌駅の大丸札幌店を中核にした駅前地域に対抗して、大通地域を盛り立てることである。現状ではなかなか難しいことでもあると思われるけれど、ラガーマンの根性で、チームでこれを推進しようとしているのが短い会話から伝わって来た。(2014・6・19)

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1世紀続く伝統の北大-小樽商大両校応援団対面式

 花フェスタ開催中の6月22日、大通公園で北大と小樽商大の両校応援団の対面式があった。両校のスポーツ定期戦に合わせて1912年から開催されて来ている対面式で、今年で100年目となる。この区切りの年に第100回目の対面式として行われる事が新聞にも報道され、会場は大勢の見物客が詰めかけた。北大の応援団が高下駄、襤褸姿で小樽商大の応援団を待っている。その合間を利用してパノラマ写真撮影である。見せ場は相手校をこき下ろす檄文の応援団長による朗読である。(2014.6.22)

応援団 伝統継いで 一世紀


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高下駄の 演技懸命 見せ所

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情報基盤センターのスーパーコンピュータ室

スパコンが 鎮座まします 科学殿

瞬(まばた)き間 百兆計算 箱の中 

 道新文化センターの「身近な都市秘境を歩いてみよう」講座の講師を勤めていて、見学先に北大情報基盤センターを見学する。一般市民は見る機会の無いスーパーコンピュータ(スパコン)を見せてもらう。スパコンはメーカーからのリースでリース料は年間10億円というから大学内の研究予算としては突出している。気象予測、天体の動きから海水の温度分布のシミュレーション、化学実験や製薬と科学技術研究には無くてはならないものになっているのを説明してもらう(2014.6.18)


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HPFhito77・「オペラ狂」と自己紹介するリストランテ・トレノ経営者比良嘉恵氏

 道新文化センターの都市秘境散策講座で小樽は何回か訪れている。北海製缶小樽工場の見学は、小樽観光大使の光合金製作所会長井上一郎氏の紹介で、同工場長江川享氏が案内してくれる。工場見学後手宮洞窟まで足を延ばし、暗く、狭い洞窟記念館内に入ってみる。手宮洞窟は小樽市総合博物館の近くにあり、同博物館の敷地内に列車再利用のリストランテ(イタリア語のレストラン)「トレノ」があり、ここで講座参加者全員のランチ会となる。このレストランも前記井上氏の紹介であった。
 ランチ会終了後、レストラン経営者の比良嘉恵氏のパノラマ写真を撮り、短いインタビューを行う。比良氏は小樽生まれである。東京で就職し、マーケティング関連の仕事をする。小樽に戻ることになったのは親の介護のためで、食に対する関心もあってレストラン業を始めた。
 イタリア帰りの腕の良いコックを3年間契約で雇い、イタリア料理のレストランを開業している。場所は小樽市高島の日本製粉小樽工場の敷地内で、旧国鉄が競売にかけた列車を買い取って内部をレストランに改装している。列車の買い取り価格は300万円であったそうである。列車レストランは23年間続いて、2008年に小樽市総合博物館敷地に移動した。最初の列車移動は、日本製粉小樽工場への引き込み線が利用できたけれど、2回目の移動はクレーン車と大型トレーラ車を用いた大掛かりのものとなる。この移動は鉄道ファン間で話題になった。
 レストランを経営してから30年にもなると、比良氏は小樽活性化のキーパーソンになり、現在は解散した「おたるエコマネー実行委員会」や「伊藤整文学賞の会」(会長井上一郎氏)の会員として活動して来ている。特に1990年に第一回が始まった前記文学賞の会は初回から関わっておられる。この会は2014年に第25回目を持って幕を閉じた。トレノの店内に「伊藤整文学賞25年の歩み展」のポスターが貼ってあった。
 商売柄、イタリア旅行は良くするそうで、もう20回は行っているとの事である。旅行に不自由しないイタリア語は身に付けた。仕事柄イタリア料理を作るので、比良氏のイタリア行はイタリア料理と食材を訪ねる旅だろうと予想していたら、それに加えてオペラも楽しんでくるとの事である。自称「オペラ狂」と話が及んでも、当方オペラには無縁で、さらに突っ込んだ話にはならなかった。


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(リストランテ・トレノでの比良嘉恵氏 2014・6・11)

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HPFhito76・多くのプロジェクトを手掛ける「いきたす」代表理事江口彰氏

 北大祭で模擬店の並ぶ構内のメインストリートを歩いていると筆者の名前を呼ぶ声が耳に入る。見ると江口彰氏が模擬店の前で客の呼び込みを行っている。客に出しているものはスープカレーである。以前、社会人入学で北大の大学院生となったのは耳にしていたけれど、もう卒業しているはずで、大学祭に関わっているのは何故かと聞いてみる。
 模擬店は、現在江口氏が責任者となって活動を行っている「カタリバ北海道」が出店している。この団体に関係する大学生が居ることから大学祭に参加しているようだ。模擬店の利益はこの団体に寄付すると言っているけれど、模擬店は黒字になるものだろうか。
 江口氏の現在の活動にはあまり詳しくないけれど、江口氏の顔を見ると最初の出会いとなる「三浦・青木賞」が頭に浮かぶ。札幌のIT企業のまとめ役の立場にあった三浦幸一氏が2000年の3月に亡くなって、三浦氏の思いを生かそうと前記賞が新しく設けられ、同年11月には第一回目の選考会と授賞式が行われた。江口氏は翌年の第二回目で学生の部門の特別賞に選ばれている。江口氏はこの時旭川大学経済学部の学生であった。
 江口氏は1975年旭川市生まれである。三浦・青木賞を受賞したことも契機となり、旭川大学を卒業後「コミューナルネット」を設立する。事業内容は国際交流事業で、国際的な人的交流を手助けすることを目的にしていた。しかし、イラン戦争やSARSの流行で国際交流が停滞し、加えて経験や資金不足で会社経営をストップする。
 新たな活動として「北海道塾」を始め、2006年には北大の教育学部修士課程に入学して勉強のし直しとなる。北大では「北大映画館プロジェクト」で日本初の学内映画館実現を目指した活動を行っている。短編映画「銀杏の樹の下で」制作に関わったりもした。
 北大の大学院卒業後はNPOカタリバ(東京)と出合い、その北海道版の普及に努めている。「カタリバ」とは文字通り「語り場」で、高校生を対象とした対話型のワークショップを柱にしている。人生での動機付けの学習プログラムを教育改革の一助にしようとしている。活動を続けるためビジネスの形態も模索していて、オフィスは札幌市の施設である「Lプラザ」内にある。
 学生達と一緒に大学祭の模擬店に居る江口氏は、留年数の多い学生かと錯覚するけれど、もう40 代が目の前である。もらった名刺には特定非営利活動法人「いきたす」代表理事の肩書がある。「いきたす」とはアイヌ語の「iki(行動)」と「as(成長)」を組み合わせ、“北”の音を取り込んだ造語であると、カタリバ北海道のHPに説明が載っている。活動の場をまた一新しようとしているようである。プロジェクトを途切れなく起こしていくことが、三浦・青木賞で評価された江口氏の持ち味のようで、その持ち味は模擬店のスープカレーにも反映されているのだろう。


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(2014・6・6 北大祭での江口彰氏)

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客の居ない北海道神宮例大祭露店

蝦夷梅雨(つゆ)や 祭湿らせ 露店(みせ)寂し

 北海道神宮例大祭のハイライトは6月16日に行われる神輿渡御である。行列の出発点は年によって変わるけれど今年(2014年)は北一条の神宮の大鳥居前からである。行列が出発した後に神宮境内に寄ってみる。参拝客はそれほど多くはない。露店も出ているけれど、月曜日の午前中ということもあり、客影が無い。天気も蝦夷梅雨の空模様で、祭も湿った感じである。パノラマ写真を撮るのには人通りがなく撮り易いけれど、祭の賑やかさの伝わらない写真になっている。(2014・6・16)


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日暮れの迫る第一農場

並木から 続く踏み跡 一直線

 日暮れが迫る第一農場の雪景色をパノラマ写真に撮ってみる。陽は既に西の山並みに掛かる雲の中である。帰宅する学生だろうか、農場の道を歩く人影が遠くに見える。ポプラ並木を通って続く踏み跡が、農場の雪野原に一直線で延びている。


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