HPFhito96:ロングトレイル・北根室ランチウェイ提唱者の佐伯農場当主佐伯雅視氏

 山登りを趣味にしているグループがあって、メンバーの一人がテレビで放送された「北根室ランチウェイ」を歩こうと言い出した。ランチウェイを最初耳にした時は、昼食を食べながら長い道のりを歩くのかな、と思った。ランチ(Ranch)とは大牧場を意味しており、牧場や山林を横切って歩き、宿泊所も牧場内や山小屋を利用する長距離徒歩旅行である。しかし、今まで耳にしたことにないトレイルの名称である。ランチウェイの途中には西別岳の登山も組み込まれているので、半分登山気分で行くことにする。
 メンバーは筆者も入れて4名で、札幌からプロペラ機で中標津空港に飛ぶ。メンバーの一人のF氏の高校時代の同級生久保俊治氏が空港まで車で迎えに来てくれる。久保氏は「羆撃ち」(小学館文庫、2012)の著者である。氏の車で「神の子池」の見学に行き、ランチウェイの途中にある開陽台で下してもらう。ここから第一日目の宿泊所となる佐伯農場までの10.1 kmを歩く。この佐伯農場の当主佐伯雅視氏がランチウェイの提唱者であり、このロングトレイルの整備を実践している。
 佐伯農場では敷地内の旧牛舎を宿泊施設として提供していて、ここに泊めてもらう。民宿といったものではなく、旅行者の宿泊ができるようにといった主旨で設けられている。従って、宿泊料金が設定されてはおらず、宿泊者が利用した謝礼を置いて行くシステムである。この宿泊施設にくつろいでいると佐伯氏が立ち寄り四方山話となる。トレイルから始まり、酪農業の現状、田園生活を教育に取り入れる話、等々と話題が尽きない。
 佐伯氏は1950年生まれの64歳(2015年)である。生まれは岡山県で、佐伯農場の初代の、父親の柾次氏が中標津に移住したため1956年に来道する。小学校、中学校、高校は地元中標津で終え、高校卒業後は江別市にある酪農学園大学に進学、卒業している。卒業後は佐伯農場に戻り、酪農業を継いでいる。1990年代には100頭の乳牛から搾乳し、年間乳量1000 tonを達成している。2000年に入り牧場敷地内にレストラン「牧舎」をオープンさせ、2004年には「ダンと町村酪農文化賞」を受賞している。
 佐伯氏は酪農業と生活文化の接点に興味があるようで、農場の人の生活空間に文化的なものを持ち込んでいる。佐伯農場経営のレストラン「牧舎」で夕食を摂った後、近くにある「荒川版画美術館」を見学する。荒川とは版画家の名前かと思っていると、後で佐伯氏から牧場内を流れる川の名前であると教えられる。版画家の方は地元ゆかりの根本茂男、細見浩、松本五郎の各氏で、作品が三部屋に展示されている。農場内の美術館とは予想もしていなかった。その他「ギャラリー倉庫」もあって、納屋の中に木彫が並んでいるのを覗いてみた。サイレージ用の牧草ロールが置かれてあり、これもアートの位置づけで、酪農業とアートを組み合わせようとしている。
 今回歩いたランチウェイも生活文化との関わりで見ることができる。氏はイギリスのトレイルを体験して来て、その思想を中標津で実現させようとしている。イギリスでは「歩く権利」が確立されていて、公共の道路は言うまでもなく、私有地でも歩くことができ、それが生活文化につながっている。日本でも地域に密着した「歩く権利と文化」を根付かせるようとして佐伯氏らは活動している。
 アスファルトの道路を歩くのではロングトレイルの魅力は半減する。第一、車道の脇を歩くのは危険なこともある。国有林内にトレイルを作ろうとすると、国の許可がなかなか下りない。それでも笹薮を刈り、歩く道を整備している話をしてくれる。イギリスのように「歩く権利」が普通の概念になれば、国有林であっても自由に歩け、むしろ国が国有林内を市民が歩くのに寛容であるべきだと思った。
 氏の話によると、ランチウェイを始めた2006年頃からの5年間はほとんど歩く人はいなかったそうである。10年経った現在は遠くから歩きにやって来る人が増えているそうだ。しかし、道内よりは本州から訪れる人が多いらしい。東京近郊の学生や子ども達に牧場内でキャンプを行う機会を作っていて、子ども達が大きくなってトレイルを歩くこともあると言っていた。確かに、道民にはこのロングトレイルの存在は今一つ知られていない。
 北根室の地のロングトレイルを歩く人を増やし、満足させるためには課題も多い。只歩くだけなら札幌の近郊の森林公園や牧場でも良い。道東の自然に加えて、この地で酪農業に従事している人々が根付かせる文化的なものが歩く人にも伝わるような佐伯氏の工夫が周囲に拡大して行くと、北根室ランチウェイの名前はもっと広がりを見せるだろう。


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(旧牛舎の宿泊施設前での佐伯雅視氏:パノラマ写真)

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HPFhito95:札幌の歴史と都市計画に造詣の深いノーザンクロス社代表取締役山重明氏

 山重明氏は北海道イトムカ出身の56歳(1959年生まれ)である。現在イトムカの名はほとんど耳にしないけれど水銀鉱山のあったところで、現在の所在地は北見市留辺蘂町である。北大経済学部に進学し、眞野脩教授の経営学ゼミ生となる。北大を1982年に卒業して北海道東北開発公庫に就職し、3年間勤めて退職する。退職後、東京でいわゆる土光臨調の民間スタッフとして加わり、国鉄分割民営化・地方分権等に携わって2年間仕事をする。
 東京での仕事に区切りをつけて札幌に戻り、1987年28歳の時現在のシンクタンクの会社「ノーザンクロス」を設立している。ノーザンクロスという星座に関する言葉はサザンクロス(南十字星)に対応した造語で、建築デザインの専門家であった北大の飯田勝幸先生からの助言で採用したそうである。北十字星は人や情報の交差点を意識したネーミングと話されていた。
 山重氏は会社の業種として「総合まちづくり」を掲げ、メインクライアントの札幌市からの依頼を受けて、札幌の街造りに助言を行ってきている。今回聴講した経済界倶楽部の札幌5月例会講演会の表題が「人口減少・超高齢化の札幌の街づくり」で、仕事柄札幌の歴史や都市計画に関して造詣が深い。
 氏の札幌の歴史のまとめによると、創建期が1860年代から1910年代の半世紀で、1869年の開拓使設置があり、開拓使判官島義勇の「五州第一の都」を目標にした札幌市のグランドデザインが描かれた史実の紹介があった。屯田兵による開拓や開拓使が指導した殖産興業が盛んになり、札幌は都市の形を整えていく。
 札幌市の拡大期は1910年代から1960年代の半世紀で、1918年の札幌の人口が13万人であったものが、周辺の町村を吸収しながら1970年には101万人に達したことからもわかるように、急速な都市拡大が行われた。
 拡大期に続く飛躍期を1960年代から2010年代の半世紀として位置づけている。この札幌市の飛躍期の牽引になったものは1972年の札幌冬季オリンピックである。山重氏はオリンピックでの男子スキージャンプでの日の丸飛行隊が表彰台を独占した活躍を目にして、感激した話をしておられた。国際都市札幌の都市文化に力点を置いての解説で、講演では触れられていなかったけれど、1960年に北大に創設された工学部電子工学科の第一期卒業生の筆者の立場では、高度経済成長に突入する日本の産業の人材養成のための新学科が北大に次々に創設された点が拡大期の札幌においても大きなウエイトを持つ。電子工学科の卒業生が興した情報産業ベンチャーを札幌市が施策に取り上げ、1986年には札幌テクノパーク造成と札幌市エレクトロニクスセンターの落成があり、札幌情報産業の幕開けにつながっていったのも札幌の飛躍期の一側面である。 
 半世紀毎の区切りで、2010年代から2060年代のこれからの成熟期は人口減少・超高齢化社会を迎える。札幌市の人口も今年(2015年)が増加から減少に向かう人口グラフの頂上の年であると紹介されると、改めて札幌市の将来について考えさせられる。今年は札幌市長が新しい顔の秋元克広氏になり、成熟期の札幌市の向かう方向性を定める必要に迫られるのだろう。そのような局面で山重氏の今後の活動が期待されるところである。
 ノーザンクロス社が発行している「カイ(KAI)」という雑誌がある。この季刊誌のコンセプトは「北海道を探しに行こう」というもので、第1号は2008年に発行されている。筆者も「北海道豆本」シリーズの「爪句集」を2008年から出版してきていて、この豆本は季刊みたいなもので、2015年現在で24集を数えている。ノーザンクロス社の季刊誌発行と筆者の個人出版は何となく似ているな、と思っている。因みに「カイ」の意味は北海道の名付け親松浦武四郎が、アイヌ語の「この土地に生まれし者達」を意味した言葉であると山重氏が知ることになり、誌名に採用した話も聞いた。
 山重氏の趣味について聞いてみると、少年野球のコーチだそうである。子息が少年野球をやっていて、その関係でこの趣味を15年間続けているとのことである。少年野球では話題の重なるところがないので踏み込んだ話にはならなかった。山重氏からは、7月には筆者の主宰する勉強会の講師で又お話を伺うことで約束を取り付けている。


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(東京ドームホテル札幌での講演準備中の檀上の山重明氏、右は経済界倶楽部札幌支局長小松久幸氏)

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HPFhito94:起業の原点が札幌にあるソフトブレーン創業者の宋文洲君

 宋文洲君(学生時代から知っていて“君”付けて呼んでいたので)と会ったのは宋君が北大工学部の資源開発工学科の博士課程在学中である。1990年3月に博士課程修了で91年3月には同学科で博士号を取得しており、その頃が彼との出会いの最初の時期である。筆者はその頃「いんふぉうぇいぶ」なる小冊子を発行していて、同誌Vol.6,No.2(1991 April)に宋君に一文を寄稿してもらった。題は「A先生へ」でA先生とは筆者のことである。
 宋君と一番最近に会ったのは2015年の4月、札幌のホテルでの経済界倶楽部の講演会である。講演のテーマは「今でも変だよ 日本の営業 ~日本の営業は未だ世界に通じない~」というものであった。肩書はソフトブレーン株式会社創業者とあり、経営の第一線からは退いていた。宋君に現在の職業を聞くと無職との答えで、強いて言えば経済評論家かな、と言っていた。
 講演前に会場ロビーでパノラマ写真撮影となる。大学を離れて色々な事があったであろうが、四半世紀前の北大生時代や札幌で企業した頃の雰囲気と変わっていない感じである。宋君の札幌に関する感想は、四半世紀経っても街がほとんど変化していないというものである。中国では数年経つと、別の都市かと思われるほどの変わりようなのに、日本と中国のこの差が印象的であるとの感想は、筆者も同感である。
 宋君は1963年生まれで、中国山東省栄成市出身である。瀋陽市の東北工学院(現東北大学)を卒業後、中国の公費留学生として北大の資源開発工学科大学院に進学している。博士論文の研究は有限要素法による地下の解析といったもので、研究で開発した手法をパッケージソフトにしたものを売る「ソフトブレーン」を大学院修了後札幌で創業している。宋君の企業人としての成功の原点は札幌にある。
 講演では札幌での起業に際してのエピソードなどもふんだんに出てくる。起業の当初は入社希望者も居らず、どこにも就職できそうもない社員を雇った話など出てくる。これは話を面白くするためのところがあり、実際は筆者の研究室の修士課程修了者の七田真之君を入社させている。七田君は大手の企業に内定していたのに、宋君の勧誘で将来どうなるかわからない出来たばかりの会社に自分の将来を賭けたのだから、宋君の人心掌握術は大したものである。
 七田君について補足的に書いておくと、彼はその後ソフトブレーンの中国展開に関連して中国に滞在したりして、宋君が会長になった時2代目の社長になっている。年月が流れてある時突然七田君が筆者の前に現れ、医者の道に進みたいと、相談のような話しになる。色々な医学部を受験して、現在は群馬大学大学院医学系研究科脳神経再生医学分野の学部生になっているのをネットでみつけた。IT企業の社長から医学の学生とは、これまた生き方の大転換である。
 宋君は自分でも言うように営業が得意で、企業で責任ある立場にある北大の先輩たちを尋ねて、自社製品を売り込み、これが会社の発展につながっていく。2000年には東証マザーズに上場して、留学生が起こした企業では最初の上場企業となった。この頃、札幌は「サッポロバレー」と呼ばれ、札幌発のITベンチャー企業に全国からの注目が集まっていた時期と重なる。宋君の会社は2005年には東証1部に市場を変更している。宋君の企業家としての成功は、北海道の振興に関わるお役人や企業家の注目するところになり、講演依頼も相次いだ。そして企業家から評論家への下地が作られていったようである。
 宋君の現在の経済評論家への転身のきっかけになっているのは2002年に日経BP企画から出版した「やっぱり変だよ日本の営業」で、日本を代表する企業の経営者からも評価を受けている。東証1部の上場後は経営から退き、2006年には取締役も退任している。経営者から身を引くのに反比例してメディアへの登場が増していく。札幌に居て、時々テレビ等に出ている宋君の顔を見ている。
 2009年には息子の教育のためもあって、生活の場を北京に移している。2014年にはこれ又息子の教育のため日本に戻っている。その息子も2016年にはアメリカ留学ということで、宋君自身もアメリカに行くかも知れない、といった話をしていた。国境を越えて生活するのが普通の人に比べてそれほど苦にはならないようで、日本企業が外国人を雇用しても良く活用できていない弱点が見えてくるのかもしれない。
 現在の趣味を聞くと、農作業だとの答えが返ってきたのは意外であった。東京の近郊で農作業を楽しんでいる話は、講演後に飛行機に乗る予定で時間がなかったので、詳しくは聞くことが出来なかった。札幌を訪れる別機会があれば今度はゆっくりと聞いてみたいものだと思っている。



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(ホテルオークラ札幌のロビーでの宋文洲君)

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N6五重塔が目を惹く芦別駅舎前

 芦別駅前には五重塔が建っている。五重塔といっても電話BOXと待合所を兼ねた建物の上部に五重塔の大きなミニチュアを乗せている。芦別近隣の炭鉱が撤退する中、地域産業が観光に舵を切り「北の京芦別」のホテルとして建築された五重塔をモデルにしている。このホテル施設には巨大な北海道大観音像も並んであるが、所有者が次々と変わり、現在は宗教法人が所有している。運炭の基地でもあったことから、駅舎は大きく構内も広い。しかし、現在は根室本線の通過駅といった他に特筆するものがない。

柱には 星の降る里 駅名標


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駅前に 五重の塔在り 観光地


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N5上り下り方向にホームの長い平岸駅

 ネットで単に「平岸駅」として検索すると出てくるのは札幌地下鉄南北線の平岸駅ばかりである。改めて「JR平岸駅」で検索して駅史をみる。1913(大正2)年開業とあるから1世紀を超した駅である。この駅も炭鉱からの石炭の運び出しで栄え、炭鉱の閉山とともに荷物の取り扱いを廃止し、無人駅となっている。駅舎外観は赤を基調にしたカラフルなものである。駅舎突き抜けの通路を通ってホームに出ると、跨線橋があり、上り下り方向の分かれたホームの距離が長く、貨物列車が行き来していた頃の面影を残している。

平岸名(な) 札都地下鉄 駅浮かび

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貨物車の 面影残り 長(ちょう)ホーム


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N4何も無いがらんどう駅舎の茂尻駅

 茂尻駅は線路と並んで走る国道38号より少し高いところにある。階段を登り駅舎内に入ると、がらんどうの駅舎内には椅子一つ無い。これほど何も無い駅舎も珍しい。壁には番の丹頂鶴と松の大木の絵が床の間のようなところに飾ってある。駅舎内の造りとしてはこれも珍しい。他の壁には油絵が掛かっていて、これにはズリ山と石炭の運搬車らしいものが描かれている。絵には雄別茂尻炭鉱風景と説明が書かれている。この炭鉱は大規模なガス爆発で1970年閉山に追い込まれた。ホームに出てみるとワンマン列車が停車していた。

客姿(きゃくし)無く ワンマン列車 停まりたり

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がらんどう 駅舎椅子無く 茂尻駅


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N3見上げる建物に駅舎がある赤平駅

 赤平駅を列車で通過するとホームに面した駅舎の大きさと豪華さが印象に残る。駅舎は「赤平市交流センターみらい」の一部になっていて、駅以外にセンター関連施設が建物内にある。外側から見ると6階建の建物で、駅舎のある玄関ホールは2階までの吹き抜けの贅沢な空間を造り出している。赤平は炭鉱で栄えた町で、炭鉱閉山と共にこの駅から石炭が運ばれることは無くなった。往時石炭を運んだSLのC58の模型がホール内に飾られていて、パノラマ写真を拡大すると見えてくる。駅にワンマン列車が着くと、豪華な建物から乗客が出て来て列車に乗り込んでゆく。

豪華駅 吐き出た客が 列車内

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SLの 模型もありて 駅ホール


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N2幌倉駅の記憶の詰まった東滝川駅

 プランターの花で飾られた小奇麗な東滝川駅舎内に入ると、「ほろくら駅」の看板が立て掛けられてある。この駅は1913(大正2)年に国鉄幌倉駅として開業している。1954(昭和29)年に現在の駅名になった。駅舎の壁には「東滝川発 ほろくらむかしロマン」と題された、幌倉への入植者の聞き書きの手書き等が貼られている。小学校の郷土資料室の趣である。入植当時は隣駅のある滝川市に歩いて往復2日を要したとあるから、鉄道の恩恵は想像できないほどであったようである。

幌倉の 記憶語りて 駅舎壁

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喫茶店 似合う建屋の 駅舎なり


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N1赤電車の思い出のある滝川駅

 通称赤電車と呼ばれた711系は2015年3月で引退した。引退の日の札幌駅ホームは赤電車を見送り、写真を撮る鉄道ファンで溢れた。滝川駅はこの電車の始終点駅の一つで、滝川駅で撮った写真にこの電車の姿が残っている。滝川駅ホームのパノラマ写真にも赤電車は写っていて、駅構内で普通に見ることのできた赤電車の姿はもう見ることはない。滝川駅は根室本線の西端駅で、滝川駅から443.8 kmの先に終着根室駅がある。支線を含めなければ根室本線はJR北海道の最長路線である。

捜し出す 写真に雄姿 赤電車

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根室線 最長路線 ここ始駅


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HPFhito93・熱気球パイロット北海道第一号の熱気球カメラマン八戸耀生氏

 北海道情報産業史編集委員会が編集しイエローページ社から2000年3月に出版された「サッポロバレーの誕生」という本がある。当時サッポロバレーを牽引していた企業家達のインタビュー記事が載っていて、それらの企業家の一人として「八戸ファームウェアシステム(株)」の代表取締役八戸朗夫氏の名前がある。インタビュー記事のタイトルには「フロンティアの沃野に立つITの挑戦者」とある。
 時は流れてイコロアート・ギャラリーで航空写真家(熱気球カメラマン)の「八戸耀生 写真展」が2014年10月~2015年3月まで行われた。冒頭のIT企業家八戸朗夫氏と写真家八戸耀生氏が同一人物であることは、氏の近くの人物でなければ知らないだろう。ITの企業家から航空写真家への転身は直に話を聞いてみると、その転身がなるほどと思えるところがある。「朗夫」と「耀生」は共に「てるお」と読み、名前を変えてもつながりがある点が、転身の前後のつながりを象徴している。
 1960年生まれの八戸氏は、札幌の高校時代から空を飛びたいと思っていた。熱気球も自作している。日本における熱気球の歴史は比較的浅く、1969年にイカロス5号が北海道の真狩村で飛行したのが最初とされる。現在熱気球は日本気球連盟が発行する熱気球操縦士技能証の取得が求められている。八戸氏はその北海道での第一号であるので、北海道大学の探検部と並んで、北海道の熱気球の草分け的存在である。
 熱気球を飛ばすだけでは生活ができないので、1981年北海道電子計算機専門学校卒業後帯広市にある「日本甜菜製糖」に3年間ほど勤め、1984年冒頭に書いた会社を創業している。仕事はハードウェアを手掛け、牛の体重測定器などを手始めに作っている。PCの黎明期に当たっていて、アイディアが次々とハードウェアの形になってゆき、最大の売れ筋の製品は、エプソンのノートPCにカラーディスプレイをつなぐアダプタである。この儲けで自社ビルを建設するまでになり、このビルは資金源調達の経緯から別名「カラーアダプタビル」とも呼ばれた。
 時代はハードウェアから高機能のPCへのアプリケーションソフトやインターネット対応へと変わっていく。この頃八戸氏は無人ロボット船をインターネットの端末として利用することを考え、無人船の太平洋横断プロジェクトを温めていたが、これは実現されなかった。時代の流れに沿って会社の製品をハードからソフトに移行させ、機能を包む機器のデザインに力を注ぐ。“文化臭”のする企業を目指したようであるけれど、結果には結びつかなかった。
 近年、新聞や雑誌等のメディアに紹介される八戸氏は世界を飛び回る熱気球写真家である。ある意味紆余曲折を経て“文化臭”のする仕事に辿り付いたのかもしれない。写真家故清水武男氏の常設展示会場のイコロアート・ギャラリーで、期間を区切って八戸氏の航空写真の作品が並べられ、写真展会場になっている。会場で八戸氏から熱気球から撮ったパノラマ写真動画などをPC画面上で動かして見せてもらう。この動画を撮るテクニックの解説も聞く。プロの写真家の仕事である。
 熱気球からの写真と対極にあるような昆虫の拡大写真もある。深度合成技術で虫の複眼が鮮明にPC画面に広がる。写真のみならず虫に関する造詣が深い。これは単なる虫好きの領域を超えている。その理由は、写真展の会場を後にして南区中ノ沢の街外れにある氏の作業場を覗いてみてわかることになる。
 八戸氏は現在「ダウンロードフォト」という会社を立ち上げているけれど、Nature Scienceの商標で昆虫標本の製作もしている。昆虫の色が鮮明に出るように処理が施された昆虫が、防腐され瓶詰めにされる。この標本を目の前にして、昆虫の驚くべき能力の話などを聞く。自分の身体の何百倍の動物の死骸を、後日自分らの餌にするため地中に埋めるシデムシの知恵は初めて聞くものである。ついでに昆虫の極微の世界の写真の撮り方を、実際の撮影装置を前にして説明を受ける。
 ITの機器から昆虫の標本という、八戸氏の作り出す製品の変わりように驚く。大空に浮く熱気球から俯瞰する大画面の世界から、顕微鏡写真の昆虫の極微の世界まで、写真家八戸氏は縦横無尽である。


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(イコロアート・ギャラリーで自分の作品と熱気球ゴンドラの前に立つ八戸氏)

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