HPFhito95:札幌の歴史と都市計画に造詣の深いノーザンクロス社代表取締役山重明氏

 山重明氏は北海道イトムカ出身の56歳(1959年生まれ)である。現在イトムカの名はほとんど耳にしないけれど水銀鉱山のあったところで、現在の所在地は北見市留辺蘂町である。北大経済学部に進学し、眞野脩教授の経営学ゼミ生となる。北大を1982年に卒業して北海道東北開発公庫に就職し、3年間勤めて退職する。退職後、東京でいわゆる土光臨調の民間スタッフとして加わり、国鉄分割民営化・地方分権等に携わって2年間仕事をする。
 東京での仕事に区切りをつけて札幌に戻り、1987年28歳の時現在のシンクタンクの会社「ノーザンクロス」を設立している。ノーザンクロスという星座に関する言葉はサザンクロス(南十字星)に対応した造語で、建築デザインの専門家であった北大の飯田勝幸先生からの助言で採用したそうである。北十字星は人や情報の交差点を意識したネーミングと話されていた。
 山重氏は会社の業種として「総合まちづくり」を掲げ、メインクライアントの札幌市からの依頼を受けて、札幌の街造りに助言を行ってきている。今回聴講した経済界倶楽部の札幌5月例会講演会の表題が「人口減少・超高齢化の札幌の街づくり」で、仕事柄札幌の歴史や都市計画に関して造詣が深い。
 氏の札幌の歴史のまとめによると、創建期が1860年代から1910年代の半世紀で、1869年の開拓使設置があり、開拓使判官島義勇の「五州第一の都」を目標にした札幌市のグランドデザインが描かれた史実の紹介があった。屯田兵による開拓や開拓使が指導した殖産興業が盛んになり、札幌は都市の形を整えていく。
 札幌市の拡大期は1910年代から1960年代の半世紀で、1918年の札幌の人口が13万人であったものが、周辺の町村を吸収しながら1970年には101万人に達したことからもわかるように、急速な都市拡大が行われた。
 拡大期に続く飛躍期を1960年代から2010年代の半世紀として位置づけている。この札幌市の飛躍期の牽引になったものは1972年の札幌冬季オリンピックである。山重氏はオリンピックでの男子スキージャンプでの日の丸飛行隊が表彰台を独占した活躍を目にして、感激した話をしておられた。国際都市札幌の都市文化に力点を置いての解説で、講演では触れられていなかったけれど、1960年に北大に創設された工学部電子工学科の第一期卒業生の筆者の立場では、高度経済成長に突入する日本の産業の人材養成のための新学科が北大に次々に創設された点が拡大期の札幌においても大きなウエイトを持つ。電子工学科の卒業生が興した情報産業ベンチャーを札幌市が施策に取り上げ、1986年には札幌テクノパーク造成と札幌市エレクトロニクスセンターの落成があり、札幌情報産業の幕開けにつながっていったのも札幌の飛躍期の一側面である。 
 半世紀毎の区切りで、2010年代から2060年代のこれからの成熟期は人口減少・超高齢化社会を迎える。札幌市の人口も今年(2015年)が増加から減少に向かう人口グラフの頂上の年であると紹介されると、改めて札幌市の将来について考えさせられる。今年は札幌市長が新しい顔の秋元克広氏になり、成熟期の札幌市の向かう方向性を定める必要に迫られるのだろう。そのような局面で山重氏の今後の活動が期待されるところである。
 ノーザンクロス社が発行している「カイ(KAI)」という雑誌がある。この季刊誌のコンセプトは「北海道を探しに行こう」というもので、第1号は2008年に発行されている。筆者も「北海道豆本」シリーズの「爪句集」を2008年から出版してきていて、この豆本は季刊みたいなもので、2015年現在で24集を数えている。ノーザンクロス社の季刊誌発行と筆者の個人出版は何となく似ているな、と思っている。因みに「カイ」の意味は北海道の名付け親松浦武四郎が、アイヌ語の「この土地に生まれし者達」を意味した言葉であると山重氏が知ることになり、誌名に採用した話も聞いた。
 山重氏の趣味について聞いてみると、少年野球のコーチだそうである。子息が少年野球をやっていて、その関係でこの趣味を15年間続けているとのことである。少年野球では話題の重なるところがないので踏み込んだ話にはならなかった。山重氏からは、7月には筆者の主宰する勉強会の講師で又お話を伺うことで約束を取り付けている。


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(東京ドームホテル札幌での講演準備中の檀上の山重明氏、右は経済界倶楽部札幌支局長小松久幸氏)

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