HPFhito86・発明装置ヘッドレストの模型を手にしたエイブルソフト社長森成市氏

 地下鉄東西線南郷通7丁目駅から歩いてエイブルソフトビルにエイブルソフト社長の森成市氏を訪ねる。森氏とはもう30年を超す知り合いなのに、会社の社長室に入ったのは初めてである。
 森氏が1982年現在の会社(当初の社名は「森コンピュータビジネス」)を立ち上げた翌年の12月に、千歳のホテルで記念講演会が催され、筆者はその講師に招かれた事で森氏とご縁ができた。取材中の話で、この講演会の講師の話は「ハドソン」、丸井今井デパート、東芝の三社で創った新会社「ディテール」の社長に就任した小林健夫氏からの紹介でまとまったそうである。小林氏は当時ハドソンの専務であった。マイコンやパソコンの黎明期の話になると、この産業の勃興期の景気の良かった話で尽きることがない。
 森氏は1953年1月15日に恵庭で生まれ、成人の日と父豊市氏から一文字ずつ採って「成市」と命名された。札幌東高校から早稲田大学の商学部に進み、商社マンを夢見て「東京貿易」に入社する。当時はオイルショックの影響で、大手の総合商社の就職が厳しかったので、専門商社を選んでの入社となる。入社後の1980年、通産省貿易大学(院)の海外との人材交流事業に採用され、サンフランシスコ大学経営大学院に1年間の留学をする。国際マーケティングを専攻し、この1年間が人生で最も充実していたと森氏は語る。
 帰国後色んな経緯があり、恵庭市に戻って起業している。当時オフイスコンピュータが普及し出した頃で、OAブームに乗り、東芝情報機器を通じてパッケージソフトの注文が全国から入ってきて、急成長していく。旧北海道拓殖銀行の「たくぎんどさんこ技術開発奨励賞」の3回目で受賞している。筆者はこの賞の審査員側にいて、当時の成長株のベンチャー企業を横目で眺めていた。同賞の1回目がハドソン、2回目が「ビー・ユー・ジー」であった。ハドソンは既に会社は無く、ビー・ユー・ジーは創業者が去り、本州資本の傘下で「ビー・ユー・ジー・森精機」と社名を変えている。企業寿命30年説というのがあって、エイブルソフトはその寿命の壁を乗り越えている。
 森氏は千歳青年会議所理事長や日本青年会議所北海道地区協議会会長などでも活躍している。その関係から、小沢一郎氏との対談が地元の政治・経済誌にも取り上げられている。小沢氏からは政界入りを勧められたが、政治の道には進まなかった。早稲田大学のOBで組織されている「札幌稲門会」の幹事長を務めている。取材中、小保方晴子氏の早稲田大学の博士論文問題も話題になる。
 ビジネスに関してはアイディアマンで、アイディアを実行に移す行動力がある。筆者の記憶に残るものは「サンプルプラザ」を立ち上げた時で、この時も頼まれて創業開店のテープカットの来賓者の一名として加わった。街の中で宣伝のために新商品のサンプルを配るのを一カ所に集約して、客に無料のサンプルを提供するというものであった。無料ということになれば口コミで人は集まる。札幌中央警察署の向かい側にオープンした店の横には人の長い列ができ、歩道をふさいだ。中央警察署からも警告が来る。これほどの人数に配るサンプルを企業から集めるのも限度がある。森氏が最初に考えたことは、ほどほどの人数で、サンプル品であるからリピータも無いだろう、という予測であった。しかし、無料のものは列に並んで何でも持っていくという「おばちゃんパワー」に負けて、1年で共同経営から撤退する。
 これからの仕事の抱負に話を向けると、最近特許取得をしたヘッドレスト装置「セイフメット(仮称)」をマネキンの頭部に装着したモデルを手にして説明してくれる。これは自動車が衝突した時、シートベルトで身体が固定されているため、頭部が前に飛び出て頸椎の部分が損傷するのを防ぐ装置である。衝突時に額の部分にベルトが出て抑える仕組みになっている。使い方によっては居眠り運転防止にもなる。ただ、商品化に向けた装置の開発はこれからとのことで、試作品の製作や機械設計などと多くの課題があるうようだ。
 マネキンの頭を手にして座ってもらい、社長室でのパノラマ写真撮影となる。同席していた福本工業の福本義隆社長は撮影の間は席を外した。取材を兼ねて、筆者が企画している来年の鉄道駅カレンダー(会社名入り)の注文をお願いすることになり、パノラマ写真サイトの「パノテツ本舗」を運営していて、森氏と長年の交友関係にある福本氏も同席しての取材となった。(2014・9・2)



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(社長室でヘッドレストのモデルを前にしての森成市氏)

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